
愛しき日々
1978年7月、北海道虻田郡倶知安町にて歯科医師である父(山岡忠義)と専業主婦の母のもとに3人兄弟の末っ子として生を受け、大切に育てられました。
父は新潟の歯友会歯科技工士養成所を卒業した後、東京の日本歯科大学へ進学し歯科医師として開業していました。
当時元気だった頃の父は大柄で、車好きで道を塞ぐくらいのアメ車に乗っていました。ゴルフも大好きでプレイも上手く、家にいないことも多かったですが、釣りも好きな父は姉・兄とともに釣りに連れていってくれたこともありました。私は末っ子だったこともあり、父に連れられ2人でいろいろな所へいく機会も多かったです。たびたび診療・学校を休み、家族全員で国内旅行にも行きました。
幼い頃から”頭の形が良いから”と母の要望で中学1年生になるまで丸坊主でした。道を歩けばいろいろな人に”マルコメちゃんだ!”と頭を撫でられることもあり、知らない人にも可愛がってもらいました。
幼少期は家での遊びはレゴブロックでセットを買ってもらって説明書を見ながら計画通りに作り、それを壊しオリジナルの建物などを作っていました。時にはプラモデルを作ることもありました。初めは説明書を見て作業していましたが慣れるにつれてそれを読まずに勘で作り、グチャグチャにして無駄にしてしまったこともありました。
小学校低学年になると姉・兄の影響でクロスカントリースキーをさせてもらいました。高学年頃に優秀な姉が高校進学のため地元を離れていき、私自身は夏はサッカー(ゴールキーパー)や野球(キャッチャー)・冬はクロスカントリースキーの全道各地の大会へ出場させてもらいました。その時には父も送迎と応援に駆けつけてくれました。
そんな日々が続き、家に誰か彼かが常にいるのが当たり前だと思っていました。幸せな状況だった日々、急遽父が検査入院になったと母から学校に連絡があり、”一人で留守番してて”と言われました。その時の不安な気持ちは今でも忘れられません。



中学生になると優秀な兄も高校進学で地元を離れていき、私自身は夏はバスケ・冬はクロスカントリースキーをやらせてもらい、スポーツも優秀な兄は2年生と3年生ともに北海道選抜に入っていたので当時の私は目標にしていました。中学3年生の時には地元のストリートバスケで中学・高校のカテゴリーで優勝することができました。スキーでもやっと北海道選抜に入り、全国中学生スキー大会(岩手)に出場できました。そんな中、父の病状は快方に向かわず常に気にかけながら過ごしていました。


高校進学の時、姉・兄が優秀なので私も優秀な者だと勘違いをし地元外の高校を受験しましたが無念の不合格!!地元の高校に進学して父・母・私と3人での生活も3年目に突入しました。その頃には父の病状も悪化して入退院を繰り返し、歯科医院が休診になっていることもたびたびありました。
高校生の頃はそんな父を見て、家では複雑な気持ちで過ごしていました。具合の悪い父のために家ではなるべく”いい子”にしていないといけなかったため、その反動で家の外ではほんの少しやんちゃな生活を送っていました。学校生活では同級生とのトラブルで無念の停学!その際に先生に連れられ自宅に帰った時、玄関先で父が先生に対し高圧的に私を庇ってくれたことがとても記憶に残っています。
高校時代の約3年間は地元の社会人バスケチームに混ぜてもらい、とても良くしていただきました。マイケル・ジョーダンに憧れ、AIR JORDANを履き、NBAのChicagoBullsでのジョーダンのプレーを観て、ジョーダンと同じ筋トレをし、体育館でジョーダンのプレーを真似して自分はマイケルジョーダンに成れると思ってました。
その後進学の時期になり今でもお世話になっている歯科材料屋さんの、当時父の歯科医院の担当の営業さんに院長室に呼び出され”お前の親父がこんな状態なのに、お前はいつまでフラフラしてるんだ!”という旨の喝を入れられました。そこから進学先を探し始めました。医療系の技師の説明会に参加したりもしました。その後なかなか進路が決まらない中、父から父自身がむかし通っていた歯科技工学校を勧めてもらいました。その歯科技工専門学校は、日本の歯科技工学校で初めて短大になった学校です。講義をしてくれた教授たちは日本各地の歯科大学で名誉教授になった方や有名な教授でした。私はその短大の1期生です。


そこに進路を決め受験をし、合格後は両親の条件付き(寮生活)で新潟での生活が始まりました。専門学校の時は全寮制でしたが短大になってからは任意に変わり、私は2年間寮で過ごさせてもらいました。地元を離れ、洗濯物一つからでも両親の大変さ・感謝の心を知ることができました。
1年目は先輩たちは全て寮生だったので、たくさんの先輩たちからいろいろなことを教わりました。2年目は少ない全寮生の中でさまざまな経験ができました。寮・学校生活では2年間で…確か…2回、先生に言われ何かの反省で丸坊主になったことを思い出します。子どもの頃に経験があったので特別抵抗もなく、某バスケ漫画の影響で坊主頭を赤く染めてもみました。
やんちゃな学生?ではありましたが臨床模型(複製)での製作の質はわからずともスピードは早く、2年生の時には学生代表になるなどの経験もし、父の同期生である先生や父の先輩である方々とお会いして当時のことをお話しいただけました。それから無事卒業の時期を迎えました。進学か就職かの選択をするにあたり、帰省した際に当時入院いていた父に”就職より進学したい”と相談をしに行きました。父からは進学するなら道内の学校にしてほしいと資料を渡されましたが、無理を言って東京の日本歯科大学附属歯科専門学校専攻科鋳造床科に進学を決めました。


東京で2年間(電車通学だと学校に行かなくなる可能性が高いと思われ、学校から割と近い神楽坂のはずれで)一人暮らしをし、日本歯科大学の歯学部の、父も入部していたバスケ部に入部させていただきました。OBの先生方に父の話を伺うこともありました。歯学部の先輩たちには部活以外でもいろいろと楽しませていただきました。
私が夏休みに帰省した際、父の体調が少し良い時は父の友人と一緒にゴルフ場でラウンドし、父からカート越しにゴルフを教えてもらいました。
専攻科で金属床も作れるようになって、当時義歯だった父に金属床義歯を作ってあげると言い、弱ってしまって具合の悪い状態の続いていた父が自分で自分の印象を取り、コンパウンドで咬合採得をし、一発完成の金属床義歯を製作しました。
指示としては”設計は任せる、レジン歯で製作してくれ”とのことでした。それに対し私は”金属床でレジン歯なんてありえないだろ”と自分本意・自分勝手に硬質レジン歯で製作をしました。
父が他界したのちに母に聞いたのは、”義治が作ってくれたのはすごい喜んでくれてたよ。うちに来た人に見せていたよ。ただ、噛み合わせは苦労して調整していた。”と言っていました。自分本意・自分勝手な選択をしてしまい、とても後悔しています。
2000年春頃、母の提案で家系のルーツでもある鹿児島へ5人全員で家族旅行へ行きました。父の調子が悪い中、みんなで楽しむことできましたが結果としてこれが最後の家族旅行となってしまいました。

帰り際、私が東京行きの便に先に搭乗する時に車椅子に乗った父から”お前は俺に似てるから、体に気をつけろよ”と言われたことを今でも思い出します。比較的まともに会話ができたのは、これが最後でした。
東京から毎年の恒例の父の日にプレゼントと手紙を送り、それから間もなく父の状況が危篤になるかもしれないという連絡で帰省することになり病院へ直行しました。
2000年6月、闘病生活の末、父の日の翌日…父は他界しました。
父の葬儀には多くの方々が参列してくださり、父の仕事のことなどさまざまな話を聞くことができました。昔は診療後に歯科医師が技工作業を行なっていた時代があったようで、その時に一緒に働いていた先生や歯科技工士さんが”仕事は丁寧だった”、”排列が綺麗だった”など私自身の人生観を左右することもおっしゃっていただきました。
そこから専攻科の卒業の時期が近づき、”大学病院がらみで学校に残るか?”という話もありましたが…
2001年、歯科医師が経営する札幌の2人規模の歯科技工所に義歯製作担当で就職しました。前担当の歯科技工士さんから2日ほどで引き継ぎ、クラウンブリッジ担当者と義歯担当の私とで日々製作していました。翌年クラブリ担当者が退職し、歯科技工士1人で日々深夜・朝方まで作業をしていました。札幌に帰ってきて思ったことは、なぜ保険の義歯でこんなに金属部分が多いのか…東京でバイトをしていた時の保険の義歯とは違う、そう思いました。
就職した頃から地域の歯科技工士会の方にも良くしていただき、その後札幌歯科技工士会の理事・副会長まで担当させていただきました。その中で色々な人と出会い、色々な先生とも出会い、歯科界のこと・歯科技工業界のこと・歯科界の歴史・歯科と医科の保険診療報酬の違いなど、さまざまな知識を与えてくださりました。行政的なことや地域的なこと、業界が抱えている歯科界の問題も知ることができました。
職業団体執行部の先生方・歯科技工士会の執行部の方々との出会いで情報共有や、プライベートなことに関しても良くしていただきました。
私自身、結婚をし子供も授かり、2010年4月、YDL Sapporoを開業させました。開業当初はクラブリも製作していました。技工士会の会務もこなしながら日々過ごし、先生からの指示に従い目の前の仕事をこなしていました。
2012年12月、日々の忙しさに流されていた時に当時の個人的にも大変よくしていただいた札幌歯科技工士会の会長が愛知県歯科技工士会で講演すると聞き、私も一緒に名古屋へ行きました。その時(下の写真)は答えは出ませんでしたが、何かに気づけたような感じがして自分自身の行動変容に繋がったのかと思います。
”過去と他人は変えられない。自分と未来は変えられる。”

その翌年から自分自身、無知・恥をさらす覚悟をもって先達・匠たちの色々な技術・知識を求めて日本各地、義歯に特化して学び始めました。時には取引先の先生と共に学ぶこともありました。その中でよく言われる言葉、”全ては患者さんのために”というあり方を学んできました。
2015年春頃、東京での3回目の研修後の懇親会で突然の初めて経験する腹部の痛み…乾杯の一杯も飲めず、お断りをしてホテルに帰り一晩寝て少し体調が戻り、2日目の研修最終日を終えました。
同年6月末、再度の腹痛…2日経っても状況が変わらず、近所の診療所へ行くと手に負えないと言われ、大きな病院へ行くよう指示されそこで緊急入院となりました。自分の体の大ごとさに気づきました。2日が山だったそうです。その時私の子供達は上の子が小学校低学年、下の子が小学校入学前でした。
約一ヶ月入院し、病院関係者の皆さんの献身的な治療により退院できました。家族・取引先の先生・自社のパートナー歯科技工士に多大なる迷惑をかけてしまいました。
緊急入院当初は、意識も朦朧で死ぬのかもしれないと思っていました。病院の先生方に身を任せるしかありませんでした。
その後は山も越えたようで不自由ではあったものの少しずつ元気に戻り、お見舞い・励ましの言葉をたくさんいただき、健康であることを父の人生と今までの自分の人生観と重ね合わせて考えました。
”命の価値、生きて在る意味”
私は歯科技工士としてどうなりたいか、今後どう生きていくかを考えました。
最近では当時の名古屋での公演内容に対しての自分なりの答えが出てきたように思います。
取引先の先生が全国の研修会へ行った際の情報を教えてくださり、歯の大切さ・噛み合わせの大切さ・全身への影響や関係も知ることができました。”何で作るかだけではない。何をしてあげられるか、いかにしてゼロベースに戻してあげられるかが重要。”と最近では取引先の先生にも言われます。今まで私が先達から学んできたことと通じます。
学んでいくうちに1番お世話になった、歯科医師でもあり患者さんでもあった父・忠義に届けたかった義歯がどのようなものだったのかわかってきました。今となっては少しでも元気なうちに父の義歯製作のために携わり、最期まで父がたおやかに過ごしていられたらと思いますが、それはもう叶いません。
自分の経験と反省を活かし、健康につながるような、患者さんのためになる義歯をどう作るかを常に研究しています。希望を持ち、可能性のある患者さんにそんな義歯をお届けしたいと思っております。
天命なのか…天名なのか…わかりませんが、忠義を尽くし義治(義歯治療)は歯科医療に貢献します。
感謝・謙虚・貢献
2021年4月7日 YDL Sapporo 代表 山岡義治
